御神籤を通して届いた、私の見えないセカイの父、「おとん」からのメッセージ【霊能者が見るセカイ】
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私の見えないセカイの父、「おとん」
人間界の父の話ではなく、私をこの人間界へ行くように命じた、魔界のドン、通称「おとん」。
この魔界の父、「おとん」には名が無い。ので、「株式会社魔界の社長」とか「おとん」とか好き勝手呼んでいるのだが、このおとんは誠に物静かで本当に昔から多くを語らず。
つまり全て「こちらで察する」しかない事が大半であり、絶対に答えを教えない、というまあ、時に「もう少し話して欲しいな」と寂しくなる事もあるぐらいに物静かなわけだ。
しかし私が実家と呼んでいる伏見稲荷大社へ行けば、温かい空気感で迎えてくれ、私に何かあれば、あれ?怒ってる?という空気感を醸し出す。
なので私の事を見捨てているとか嫌いとかそういう事ではないのは分かっていて、「空気感だけで察しろとかまるで昭和の家庭のおとんのようだな」と感じていた。
そんなおとんであるから、色々な事に自分で答えを出さなければならないので、時には血反吐を吐く勢いでしんどい時もある。
まあ、おとんに限らず、何でもホイホイと答えをくれる神なんぞ、偽物か神上がりしたい何かだと思っているので、「ちょっと寂しい」以外には特に不満もなかった。
しかし、ある頃の私はまさに血反吐を吐く勢いでしんどい日々が続いていて、諸々の心労、過労が重なり、いや、そろそろやばくね?と自分で感じるぐらいにヤバイ状態になっていた。
うーん、伏見稲荷大社へ行く時間はない。しかし祐徳稲荷神社へは行く時間は取れそうだ。本当はおとんに会いたいが、所謂「親戚宅」である祐徳稲荷神社へちょっくら行って癒されるか・・・。そう思い、深夜の祐徳稲荷神社へ向かった。
祐徳稲荷神社は、社務所が開いている時間であれば「玉みくじ」という御神籤が引ける。この御神籤が私は好きで、毎月の参拝の際にはあえて日中に出向き、玉みくじを引く事にしていた。
木箱の中に入っている宝珠の形をした玉を選び、書いてある番号を告げると巫女さんがその番号の棚から一枚の御神籤を渡してくれる。
頂けるのはこんな感じの御神籤だ。置いてある説明書きと一緒に写真を撮っておかないと、後で意味が分からなくなる。
しかし、今回は深夜だ。玉みくじから何かしらのヒントを得る事もできない。
祐徳稲荷神社は24時間参拝可能だが、夜に引ける御神籤は、どこにでもある自動販売機型の御神籤だけだ。
一旦楼門の前で私は立ち止まり、少し考えて引き返し、自動販売機型の御神籤の機械に百円玉を投入していた。
夜の祐徳稲荷神社は美しい。
それだけでも充分だと思い、私は上までゆっくりと巡り、途中、「ちょっとしんどいんだよね」と独り言のように弱音を吐き、下へ降りてきた。
そうして、私は基本的にはあまり御神籤を引かないのもあり、もちろんあの自動販売機型の御神籤はスルーして帰ろうとした。
しかし、一旦楼門の前で私は立ち止まり、少し考えて引き返し、自動販売機型の御神籤の機械に百円玉を投入していた。
量産型の御神籤だし、ありきたりのメッセージしか書いていないのに何やってんだ自分。余程弱ってんなこりゃ。そう思いながらその場で御神籤を開いた。
”願いあるなら親御に頼め、国の御親さまに
人間が力に限りを尽くしてなお力の及ばぬ場合、神の力に御たよりするは、止むにやまれぬ自然の心情である。だが神様と名のつく物にもいろいろある。溺れた時、ワラをつかんだのでは役立たぬ。正しい御おやの神様の御いつくしみの御手にすがらねば駄目である。”
ああ、「おとん」だ。
あの多くを語らないおとんからのメッセージだ。
おとんの大きな手が、子どもに優しく頭をポンポンとするような感じで私に触れている感覚がした。
「ま、とりあえず実家へ帰ってこい」
そう言われた気がして、私は境内で一人、その手の温かさを堪能しながら、座り込んで何度もその御神籤を読み返していた。
その後、もう一度本殿へ上がり、「何とかして近いうちに帰るわって言っといて」と告げて、車に戻った。
単純なもので、帰り道の私は心が晴れやかになり、この今現在の困難なんて簡単に乗り越えて見せるさ、ぐらいの気持ちになっていた。
私は人間界では家族というものに恵まれなかったが故に、一人で何とかするのが当たり前だと思っていた。
しかし、「おとん」という存在は本当に温かく、力強く、そうしてちゃんと見てくれている。一人じゃない、という気持ちはこんなにも人を一瞬で回復させるものなのだな、と感じた夜だった。