連載「霊能者かんなぎの人生」vol.8 霊能家系に生まれても、異端である
連載「霊能者かんなぎの人生」vol.8 霊能家系に生まれても、異端である
なんとなく、人生を書き綴ろうと思った事に対した理由はない。
ただ、同じような思いをしている人がいるならば、そういう人に届けば良い、そう思った。
先に書いたように、「楽しい事」「ワクワクする事」が大好きだった私は、
家では母の意思通りに存在する人形で居なければならなかった。
私は勉強が出来る子だったと自分で言うのもなんだかなと思うのだが、
全ての教科でほぼ満点を取るような小学生だった。
それは、なにかを無理したからとかそういう事ではなく、
「知る事」が大好きだったからでしかない。
小学生の勉強なんて、知らない事を知るのが好きだったら、大体何もしなくても頭に入る。
勉強が嫌いだったら頭に入らないなんて当たり前の事で、
子どもなんて興味を持てば、勝手に頭に入るものだと思っている。
それでも、テストで良い点を取れば褒められたいのもまた子どもである。
しかし母は、私がテストで満点を取っても、「私の子だから当然」という事で、
褒めるなんて事は一度もしなかった。
褒めるのはいつも自分。「私の子だから」ただそれだけだった。
それでもいつかは褒めて貰えるものかと期待していたが、それは叶わなかったので、
私は中学後半になって勉強が嫌いになって、勉強を捨てた。
嫌いになったら頭に入らない。当たり前だ。
成績が落ちていく私を母はどう思っていたのかって?
「友達が悪いから」それだけだった。
褒める事はないのは分かった。
それよりも何よりも、どんな事が引き金になって母を激昂させるか分からない。
私はそっちの方に神経をすり減らしていた。
夕日が綺麗だなと夕日を見ていたら、その手前を友達が手を振って通ったのを私が気が付かなかった事を嘘つき呼ばわりし、
本当に夕日を見ていて気が付かなかったといくら行っても、見えない訳がないでしょうと譲らない母と、
不毛なやりとりの後に数時間玄関先に置き去りにされ、
その時間に何よりもサザエさんが見たかった私は、いっそ嘘をついたと言って家に入りたかったが、
でも、ついてもいない嘘に謝るのはおかしいというプライドが勝って、その数時間を黙って耐えた。
そうしたら、母が「一度叩かれるなら家に上げてあげる」と言った。
ついてもいない嘘について叩かれる理由もないのだが、
話を聞くという事が出来ない母とまたやりとりを望んだって、それは無駄な事だった。
悪い事をして叩かれるのと、言いがかりで叩かれるのとは気持ちの有り様が全く違う。
大人が思うよりも子どもは沢山の事を見て、考えている。
母はそんな事、今だに分かっていないんだろう。
そんな風に、日々神経をすり減らしていた私は、
ある日から解離性健忘を起こすようになっていた。
帰宅して部屋に入って勉強机に座って、気がついたら夕方もしくは夜になっている。
そんな事がずっと続いていた。
その間、何を考えていたのか、その場から動いたのか、何も記憶にない。
入眠障害も併発していたので、眠くてベッドに入ってから二時間以上寝付けなかった。
でも、その時はまだ知識が無かったから、みんなそうなんだろうと思っていた。
だから、誰にも相談しなかったし、誰に聞くこともなかった。
母は、「いつもベッドに入ってからガサゴソ何してるの?」と訝しげに聞いてきた事はあったが、
私のこの異常に気がつく事は最後まで無かった。
それからアトピーも喘息も、母は治療が必要だとは気がついていなかった。
大人になって、あまりにも苦しくて自分で病院に駆け込んで、始めて自分が喘息だと知った。
大人になって、鬱っぽくなったもので病院にかかって、自分の解離性健忘や入眠障害が病気だと知った。
我が子を小児科に連れて行っていた頃に、お世話になっていた先生がよく言っていた。
「我々よりも、母親の”なにかおかしい”という勘の方が実はすごい時が多々ある」と。
私もその話には全面同意して、思い切り頷いていたのだが、母にはそれがなかった。
自分の体調を自分で感じ取り病院にかかって診断される結果や、
我が子がおかしいと思って受診して診断される結果や、
そうやって自分や我が子の病気と付き合って行く間に、
母というのは、本当に子どもの事なんてどうでも良かったんだな、という実感が増えて行った。
そんな母が、多額の借金を残して、新しい人と家を出たのは、小学校高学年の時だった。
そんな私の人生を語る事に意味があるのかはわからない。
ただ、自分がもし、異端だと思っている人がいれば、
また、これから先の話を通して、苦しい人生を歩んでいる人に「ひとりじゃない」と思って貰えれば、と思い、
不定期ながら人生を語らせていただこうと思う。