「悟りを開いた」「アセンションしました」え、それ自分で言うの?
「悟りを開いた」「アセンションしました」え、それ自分で言うの?
煽りタイトルです。
さて、ある日、とある人から電話があった。特に何も考えずに電話に出た訳だが、ソイツは唐突に
「俺は悟りを開いた」
と言った。
もうこの時点で私の頭の中は「???」でいっぱいなわけなのだが、ソイツは「完全に悟りを開いた」「悟りを開いたので主婦を中心に啓蒙活動を行う」とか言っている。
何を言っているんだ。
また、別の人から連絡が来た。
「私、アセンション終了しました!」
「もう準備は整いました!」
・・・うん?そうなの?
その人たちの言動を見ていると、矛盾だらけなんだ。
こういう業界に居ながらどうかと思うが、私は「悟り」や「アセンション」という言葉が今一つ苦手である。
その苦手意識はこういった方々の言動に理由があるという事は自分でも分かっているので、それそのものを否定するつもりもない。ただ、苦手、なのだ。
自分から「悟りを開いた」とドヤ顔する人間にロクな奴はいない。
悟りを開いたらしき人間が、いちいちそうやってドヤ顔する時点で、自己顕示欲という煩悩塗れであるし、そもそも悟りというものは、全てを理解する事であり、そうすると人間界の小さなこざこざなんてどうでも良いはずなのだ。
先述の「悟りを開いた」奴は、毎日何かに腹を立てているし、ネットで個人攻撃を繰り返し(なんなら私も恨まれてネットに個人情報をばらまかれた)、泣いたり怒ったり感情の振れ幅が凄すぎて、どうみても「悟れておりませんね」状態である。
ある神社では、自分の名字(レア姓ではない)と同じ神社だという理由で、「俺は選ばれた民だ」とか言って、拝殿で大の字になって寝っ転がった事もある。
いや、寝っ転がるのは勝手なのだが、動機付けが滅茶苦茶だ。
鈴木神社という場所があって、そこに名字が同じだから選ばれた民だ、とか言って全国の鈴木さんが押し寄せたらどうなるんだよ。選ばれた民多すぎだろう。
そもそも「俺は選ばれた民」という言動からも「悟れておりませんね」が垣間見えるわけなのだが、何をもって彼は「悟りを開いた」と言ったのか。
今どこで何をしているか知らないが、話術だけは詐欺師並のレベルであったので、もしかしたらどこかでスピリチュアルセミナーでもやっているのかもしれない。
もう一人の「アセンションちゃん」は、「アセンションは終了しました!」と言っていたから多分もう人間界に用はないのだろう、と思うのだが、これまた人間界の小さい事でちまちまと落ち込んだりしている。
スピリチュアル業界でのマウンティング材料としてアセンションを使うのであればそれはそもそも「アセンション出来ておりませんね」状態だし、そもそも高次元へ「上昇」したと言うが、次元というものは「別次元」であり、上昇や下降するものではないというのが私の解釈だ。
確かに数字的には「上昇」しているので、「高次元エライ!!」となっているのだが、そういう事ではない。
人間界への執着があるうちは人間であるし、魂の浄化とか次元上昇とか言いながら天使やパワーストーンに縋っている姿は、とてもじゃないですが「アセンション出来ておりませんね」状態にしか見えない。
人間が知り得る事なんて本当にささやかな事なのに何故「人間界の基準」をもって決めつけるの?
そもそも「アセンション終了」とは何をもって終了なのか。
人間が知り得る事なんて本当にささやかな事なのに何故「人間界の基準」をもって決めつけるのだ。
どちらにも言いたいのが「自分で言うな」という事である。
本当にそうなのであれば、自分から主張して回らなくても他者がそう評価するだろう。
この、非常に人間的な状態が悟り・アセンションというのであれば、人間総悟り・総アセンションである。
・・・悟りやアセンションを是正的にとらえ、「さあ、皆でアセンションしましょう」とか言って居る方が能力者的にウケが良いのは分かっている。
でも、心の底から濁りがなくこの世を見渡す事ができたり、または心の底から、微塵も偽善の心を持たず他者を愛する・感謝する事が365日24時間出来る人なんて、実はほんの少数だと思うんだ。
どちらも、この世の真理という恐怖よりも更に先へ行かねば到達できないものである。
その恐怖を知らずにキャッキャと楽しそうに「悟りを開いた」「アセンションしました」というのは私は違うと思っているのだ。
全てが存在し、そして全てが存在しない。そういう事だと思う。
ちなみに私は悟る気もアセンションする気もない。もう少しこの人間界という地獄を味わいたいからね。
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