「一度許す・一度信じる」。他人を疑い観察し、「またやらかす」事に期待する事は人生の浪費だと考える。
目次
その心配はその人が勝手に生み出したもの
「私は、あの子が”また”嘘をついているのではないかと心配で」
「いや、そんな手の込んだ嘘を考える暇があったら行動するでしょう」
「いえ、私を安心させるために、あの子はネットに詳しいし、このLINEの画面を偽装しているかもしれないじゃないですか?」
「いや、あの、”また嘘をついている”と決めつけてどうするんですか?前はこうだった、前回もこうだった、と言いますけど、一旦信じたらどうですか?」
私は辟易していた。この相談者は、自分の子が嘘をついているのではと疑っているのではなく、”嘘をついていて欲しい”ようだ。
その心配はその相談者が勝手に生み出したものであり、前例からして嘘をつく子なのは分かるが、それでもそこまで手の込んだ事まで妄想して疑う事自体が問題だ。
この”またやらかすかも” ”同じ事の繰り返しだろう” “変わるわけない”という妄想はある意味呪詛だ。
”またやらかしてくれ” “同じ事を繰り返してくれ” “変わらないでいてくれ”という思いの裏返しであるからだ。
この手の思考はやっかいだ。例え今回は嘘をついていなかったとしても、”でも次は嘘をつくよね?”という考えが消えないからだ。
詐欺師レベルの男に引っかかったとか、常時嘘しか吐かない困った人や、ひどい借金癖やギャンブル中毒、アル中を相手にしているのであればそれは即刻”F××k”でよろしい。
(何故かそういう人は逆に相手の疑いを煙に巻くのが得意だから、洗脳されちゃう人も一定数いるんだけどね。)
自分がリベンジしたい立場だったらどうだろうか。
がしかし、変わろうとしている、期待に応えようとしている”かもしれない”相手に対して、”またやらかすかも” ”同じ事の繰り返しだろう” “変わるわけない”という思いで縛ってしまい、その人がやらかしてくれる
のを待つ無意識の思考というものは、私はあまり好きではない。
自分がリベンジしたい立場だったらどうだろうか。
本気で自分を変えたい、変わりたい、だから行動で証明しよう!と頑張っているのに、周りは明らかに”またやらかすかも” ”同じ事の繰り返しだろう” “変わるわけない”と逆の方向に期待を込めた目で見ていると分かったらどうだろうか。
自分の心の荒地に生えた一つの小さな芽。それを躊躇なくぐしゃりと踏み潰すその行為は、自分の心の荒地を広げるだけの結果となり、結果「もうどうでもいいや」と新たに種を蒔く事をやめてしまいはしないだろうか。
決めつけずに全てを一旦「リセットする」機会を与えよう。
故に私は「まずは許す・信じる」という事を信念としている。
この信念は上辺だけの話ではなく、心底「まずは許す・信じる」事だ。
いや、「許す・信じる」という意識とは少々違うかもしれない。
その人に対する全てを一旦「リセットする」と表現する方が正しい。
もう一度スタート画面からゲームを始める感覚と似ている。
前回のゲームでは道を誤った。次のゲームではその教訓を生かす事ができれば、その道は通らないであろう。
またはその道に入り込んだとしても、切り抜ける方法を学んでいるだろう。
私は毎回、その人がこの次はゲームをクリアしてゴール画面に辿り着くのか?どういう結果になるのか?単純にそれだけを見たくて、リセットを受け入れる。
とてもシンプルな思考回路だ。
相手の謝罪や決意を聞いて、「ああ、わかりました」それだけである。
そのゲームに2人目のプレイヤーとして協力参戦する事もない。ただ、私の手にあるリセットボタンを押す、それだけである。
そうして何度も何度もリセットボタンを押して、それでも同じ道へ行き、成長の無い人に対して初めて「F××k」という感情が生まれる。
ああ、これだけのチャンスをモノに出来ないという事は、そもそもがでまかせ、または学習機能皆無だったんですね、と判断する。
これを人は「気が長い」「許しすぎ」と言う。が、しかし、そうではなく相手に何も求めていないのだ。
”またやらかすかも” ”同じ事の繰り返しだろう” “変わるわけない”とも、”またやらかしてくれ” “同じ事を繰り返してくれ” “変わらないでいてくれ”とも思っていないのだ。
もっと冷たく言えば、その人に対してまたやらかすかも、同じ事の繰り返しだろう、変わるわけない、心配だ、腹が立つ、気になる、という感情を、自分の領域に持ち込むことが煩わしいのだと思う。
自分の心や思考にはキャパがあり、そのキャパは極力自分にとって有意義な事に使いたい。そう思っている。
故に、「許す・信じる」の次の感情は極端に振れて「F××k」となるのだろう。
中途半端に自分の領域に持ち込むことが煩わしいので、その間の感情が無いのだ。
”他人”というものに自分のキャパを使い切るその生き様は、完全に自己の成長を妨げる。
荒地を耕し、生えた芽。それを育てるのも枯らすのも、本人に任せておけば良い。
他の土地からやいのやいのと口を出したり、はたまた枯れるように仕向ける必要もない。
これ、どうしたら良く育つでしょうか?と聞かれたら、その時はそれに対して知恵のある者がアドバイスをすれば良いだけだと思う。
その知恵を生かすか殺すかはその人次第なのだから、それ以上の手出し口出しは無用である。
ある意味人を観察し、人を責め、人の欠点をあげつらい、ほらまたやらかした、と愚痴を垂れたり、嬉しそうにしている人は、自分というものが無いのだと思う。
こういう人は責める箇所が無い人に出会うととてもつまらなさそうにしている。
”他人”というものに自分のキャパを使い切るその生き様は、完全に自己の成長を妨げており、無意識の中にその自覚もあるものだから、出会った人が責める対象でないとつまらないのだろう。
「皆自分より下でいて欲しい」という願望の現れだ。
自分がそうやって「皆自分より下でいて欲しい」と思う時に、周りもあなたに対して「自分より下でいて欲しい」と思っているものだ。
互いに人生の浪費をしている事に気が付かないその相互呪詛の輪の中。
その輪から抜け出すのも抜け出さないのも、あなたの自由だ。