自分の心に杭を打ち付け、知らずに自分を痛めつけ、自分を喰う事になる「責任転嫁の箱」の闇。
今回はある意味自戒のための記事だ。
責任転嫁の箱に入りそうになった時に読み直す記事として置いておくつもりで書いている。
目次
責任転嫁の箱
「あの人がああ言ったから」
「だって●●がこうしろって。」
「自分は実はこう思っていたけど、こう言われたから、こういう事があったから、出来なかった、やれなかった、従った」
この言葉をやたらと使う人は、そこを突っ込むと、まず100%「でもそれが事実だから」と返ってくる。
確かに事象としては事実だろう。
都合の良い所だけ他者に責任転嫁をし、他の所は自分の意思で決めて動く。
人と言うのは我儘なものである。
これは勿論私にも当てはまるもので、人間誰しもそんなものなのだと思う。
出来れば他者の責任にしてしまいたい、そうしてさっさと解放されたい。
が、それをあちこちにふれまわり、愚痴を垂れ、「だから私悪くないでしょ?」と賛同を求めて回るその姿は、客観的に見て「カッコ悪いしダサイ」と私は思うのだ。
責任転嫁の箱に入ると口だけは達者になる。それで相手を論破したつもりになっているのかもしれないが、そんなに人は馬鹿ではない。陰で呆れられ、笑われているのは、自分が責任転嫁した相手ではなくて、自分自身だ。
納得がいくまで考えて、自分の決定に宣言を
そういえば私は一つの事を決めるのが早い、とよく言われるが、実はそんな事はなくて、実は結構なシミュレーションを繰り返し、それからようやく物事の決定をしている。
幸い同じような思考回路の友人が近くにいるので、お互いに一人でのシミュレーションの限界が来ると会ってひたすら話をするのだが、この時に必ず出てくるワードがある。
「結果どうなろうと、自分で決めた事だから後悔はしない、相手を恨まない、相手のせいにしない事」
この言葉はつまり、この友人と話し、様々な意見を出し合い、自分で意思決定をし、自分の意思に基づいて行動する、行動した、という着地をし、そこに対して納得をする、という宣言だ。
それが他者からどう見えようと、自分が納得した事であれば、それはその後の愚痴や責任転嫁には繋がらない。そこに落とし込めるまでは、出来る限り意思決定はしない方が良いのだと思う。
「カッコ悪いしダサイ」のは嫌だ
「あの人がああ言ったから」
「自分はこう思ったけど、こう言われたから従ったまでで」
「だって●●がこうしろって」
これは本当に楽な逃げ道である。自分に責任はないと声高に言える事はどれだけ楽な事か。
ただ、私はなるべくならこの言葉を使いたくないがために、自分の判断に悔いがないようにシミュレーションを繰り返す。
何故か?単純に「カッコ悪いしダサイ」のが嫌だからだ。
自分が付き合っている人は自分の鏡だ。という事は、そういう生き方の人の所へは似たような人が寄り集まる。
そう考えると、今目の前でその発言をしている人がいるという事は、私にも何か同じような事をしてしまっている事実がある、という事になる。
事実、思考が腐っている時は、分かりやすいぐらいにそういう発言を聞かされる事になるし、それに賛同してしまう自分がいる。
この無様にもその渦に巻き込まれた自分に気が付いた時に、「カッコ悪いしダサイ」事にも気が付いて、まずは枕を千回ぐらい殴り、のたうち回り、それから思考の立て直しをする。
たとえ生きづらくても私は考え続ける
・・・なぜこのような思考に至ったのか、なぜ腐ったのか、原因を奥深くまで探り、熱を出す事も多々ある。
これを他者は「カッコ悪いしダサイ」と言うかもしれない。もっと楽に考えたら?と。
しかし私は、責任転嫁の箱に入っている「カッコ悪いしダサイ」よりも、この思考にのたうちまわる「カッコ悪いしダサイ」を選んで生き続けている。
きっと、同じような生き方をしている人は生きづらいだろう。私とシミュレーションを繰り返す友人も、この考えすぎる癖がある為に生きづらいと良く言っている。
しかし、生きづらいながらも悔いは少ない人生をお互い送っていると思っている。
悔い=杭、喰い。なるほどなと思った。
自分の心に杭を打ち付け、知らずに自分を痛めつけたり、はたまた自分を喰う事になり自分を失くすような、責任転嫁の箱の闇。
これは他者に責任転嫁という呪いを掛けたら呪詛返しで自分がやられた、という状態に近いなと考えた。