「正見」ありのままをありのままに見る、簡単なようで難しい事なのだろう
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「正見」ありのままをありのままに見る、簡単なようで難しい事なのだろう
「正見」は八正道の最初に出てくるテーマである。
ありのままをありのままに見る。
独断や偏見、そうして自分が作ったフィルターを全て排除して、他者も己も見る事、
これを「できています」という事は簡単だが、本当にそれを出来ている人はそう多くないと思う。
どうやったって人は自己弁護をしたいし、他者と比較をしたいという気持ちを抑える事は難しく、
人は多面であるにも関わらず一面しか見ずに判断をしたり、
自分の事すら多面であることを忘れているような、そんな人が多いように感じている。
また、他者を過剰評価して、曲がったものをまっすぐ見ようとしたり、
自分を過小評価して、良いものが何もないように見る事もまた、ありのままをありのままに見る、というテーマからズレているという事になる。
曲がった木の枝は曲がっていて、まっすぐな幹はまっすぐでしかない。
「こうあって欲しい」「こうならないで欲しい」という希望というフィルター
なのにそこに沢山の飾りをつけたり、なにやら加工をして都合よく見えるように修正する。
人間の生きていく術として身についたものかもしれない。
しかし、その飾りや加工のない「そのもの」がどれだけ美しく尊いものかを、人は忘れたのかもしれない。
そこにある人間関係からくる愛着や否定。
「こうであって欲しい」という希望というフィルター。
または「こうならないで欲しい」という希望というフィルター。
起きた事象を目の当たりにした時に、そのフィルターを外して正しく見る事は、そう簡単ではないのだろう。
しかし、飾りも加工も、希望というフィルターも、それが無いと分かった時に、人は勝手に絶望する。
まさに「自分勝手」ということで、それを自己否定や他者批判にすり替える。
自分が勝手に想像した形通りにならない事に、憤り、嘆き、絶望する。
「あいつなんて」
「自分なんて」
違うようで全く同じ話だ。
どちらも、自分が引き受けた事に対する結果、因果だ。
ありのままに生きる、という事を自由勝手に生きる事だと捉えている人も多い。
ありのままに生きるという事は、自分をありのままに見、他者をありのままに見、
そうしてありのままに判断をし、ありのままに生きる、という事だ。
人の迷惑を顧みず、自分勝手に生きるということは、
他者の存在を無価値なものだと勝手に定義し、または損得での判断をし、
そうして自分の価値付けも含め、全てをありのままに見ることが出来ていないという事になる。
ありのままに受け止め、あるがままに感じ、ありのままに向き合えば
しかし、生きていれば人に迷惑をかける事も、傷つけるこ事も、そして嫌な思いをする事も、悲しい思いをする事もあるだろう。
だが、そういった事全てを「無かったこと」にするのではなく、
その時の感情にフィルターをかけずに「ありのまま」を見て、感じ、ありのままを受け止め、
より良い方向に向かう為に素直にそれを受け、報いがあれば受け、感謝があれば伝え、受け取り、
そこに一切の言い訳もなくあるがままを見、ありのままである事、
過ちを犯さないように慎重に生き過ぎるよりも、犯す事を重き罪と考え過ぎる事もなく、
起きた事象にありのままに向き合えば、その過ちだって次は犯さずに済むのだろうと思う。
そうして、自分が他者から受けた苦しい感情もまた、
無かった事として閉じ込める事もなく、感じないように多重にフィルターを掛け湾曲するよりも、
ありのままに受け止め、あるがままに感じ、ありのままに向き合えば、
その苦しみだって気づきと成長の糧になるだろうと思う。
私は、自分を強く縛り過ぎる事もまた、ありのままに見る事からは外れると思っている。
しかしこれは、自分勝手の領域と紙一重だとも思う。
自分でもスレスレのところを行ったり来たりしていると自覚があるので、
私もまだまだ「正見」を実践していかねばならないと思う。
ただ、私は人に対しての偏見は極力排除して生きている。
なので、あの人と何故関わるのか、とかやたらとそういった事を聞かれるが、
それもこちらがあるがままに見、考えての事なので、
正直、こういった事は誰かのフィルターで判断されたくはないと思っている。
これは自分勝手とは違うと思っている。
そうして、ありのままに見る事で、だいぶと苦しみから解放されるとも思っている。
「中道」で常にいられるように努める事は、私もこれからも続けていきたいと思う。
八正道の入り口の「正見」でこれだから、八正道は本当に難しいと思う。
私も、これからも実践していきたいと思う。