「因果応報」物事には全てにおいて「原因と結果」がある
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「因果応報」って悪い意味だけだと思っている人は多いのかもしれない
日本人なら知らない人はいない「因果応報」という言葉。これは単純に「悪い事」だけではない。
因果応報・善因善果・悪因悪果
物事には全てにおいて、「原因と結果」がある。因果応報の言葉を分解すると、それが見えてくる。
良くも悪くも、原因と結果があってそれに応じた報いがある。
例えば、Aさんに辛く当たる(原因)⇒Aさんに嫌われる(結果)⇒困ったときに助けてもらえなくなる(応報)、またはその逆もしかり。
呪詛的な例えをするならば
呪詛をかける⇒呪詛を返される⇒私がやられる
という感じだろうか。いや、困るけれども。
「善因善果」「悪因悪果」
「善因善果」「悪因悪果」という言葉がある。
これはもうこのままなのだが、つまりそういう事である。
因果律は法則通りに巡るのだ。
それなら極力 「善因善果」だけで生きていられればそれが一番良いのだが、人間そうもいかない事が大半だろう。
人を恨む事もあれば怒り、悲しみの感情もあり、それを相手にぶつけてしまう事だってたくさんある。それはもう致し方無いのではないだろうか。
表に出そうが出すまいが、人には感情があるのだから。品行方正に生きろなどと言うつもりは全くない。いいじゃないか、人間なんだもの。
ただ、 「悪因悪果」の種を自分から蒔くのは少ない方が良いと思う。悪果は忘れた頃に必ず返ってくる。
因果応報なんてないじゃないか、とたかを括っていると、思わぬところから返ってくる。
もしかしたら、本人には気が付かれないようにジワジワと返ってきているかもしれない。
心の在り方
しかし表面で善因を振りまいているように見せかけても、お上さんはそれはそれでお見通しであり、それは実は悪因を振りまいている事になりかねない。
心がどうあるかという事が重要である。
「善行ばかりしているのに良い事がない」というのであれば、その善行は果たして本当に相手の為を思って行動しているか?下心がないか?というところを考えて見るといいと思う。
それでも自分は善行をしていると思うならばそれも自由であるが、「応じた報い」は答え合わせをきちんと出してくる。
その逆もしかり。悪因を振りまいているようで、性根の部分が逆、という事もある。とても少数派だと思うけれども。
つまり表面的な因果応報を説明するのはとてもカンタンだが、本質の因果応報となると、人に感情がある限りとても難しいのだ。
また、もっとややこしい話になると、人から「善意」となる原因を受け取るばかりで、それをまったく返さず独り占めしている場合にも、それは独占欲という「悪因」となりそこにも「応じた報い」が反映される。
人から助けてもらう事が当たり前になっている人は、そこも意識を向けた方がいいと思う。
その逆で、相手から「悪意」となる原因を向けられた時に、こちらから「善」を返す事で、それは良い方向に「応じた報い」となる。
これは実はとてもカンタンな呪詛返しの手段の一つだ。
耐えろという事ではない。これはセルフマインドコントロールの問題。
悪意を向けられてもこちらの心を切り替える事ができれば、その悪意は肩透かし、ダメージを食らうのはゼロまたは最小限で済む。
同じ土俵で争うな、という事である。悪因に悪因を返していては、お互いに「応じた報い」を受け取る事になるだけだ。
これは悪因の循環、つまり悪循環となる。
そういう意味では「ペイフォワード(ペイイットフォワード)」というのはとても良いと思う。
善因の循環を巻き起こす事で、良い「応じた報い」が広範囲に広がる。純粋な善因の循環はとても気持ちが良いものだ。
ところで、呪詛は因果応報の法則が分かりやすく反映される。
それがプラスの呪詛であればまだマシである。プラスの呪詛はこちらも善意をもって相手の為になれば、という善因として解釈できるから。
マイナスの呪詛の場合はそうもいかない。どうやっても悪因に傾いてしまうのでそれなりに悪果を食らう。ゼロはない。
が、しかし、呪詛についてはある意味、それしか方法がない弱き人の為の「善行」であると思うのであるが。そのあたりは”上”と話し合いが必要だ。
話が逸れたが、「善因善果」「悪因悪果」、これはもうこのままなのだが、つまりそういう事である。
因果律は法則通りに巡るのだ。