気の所為、思ひ做す。気の為せる所により起こる事象。それらは自身の心が産みだした魔性であり、それが自らを覆いつくす恐怖へと変化する。
BLOGコラム霊能者が見るセカイ。八百万奇譚話思考を変えれば人生が変わる
私がこんな事を言うのも我の仕事を減らすのでどうかと思うのであるが、相談を頂く霊的事象の7-8割は「気の所為」である。
気の為せる所により起こる事象。それらは自身の心が産みだした魔性であり、それが自らを覆いつくす恐怖へと変化する。
所為。仕業・振舞いという意味である。
気の振舞いがその事象を起こす際、自身の気は乱れ、弱り、疑心暗鬼に入っているという事になる。
そうして思ひ做す。それは霊的事象であると思い込み、決めつける。その悪循環が続けば、人は洗脳すら可能な状態となる事だろう。
人は何かが聞こえたような気がした時に、「気のせいか」と呟く。
気のせい、自分の気のありどころのせい、という事を、実は無意識に知っているとう事だろう。
それならば自分が気をしっかり持っていれば、はたまた自身の心が産みだした魔性を自身の力で凌駕できれば、それはいとも簡単に消え去り、まさにその後に「気のせいだったか」と安堵する事ができるという事になる。
分かりやすい所では心霊写真だ。
何て事のない写真を、事細かに見て、ここにも、あそこにも人が写っていると騒ぐ。しかし、心霊写真の大半は「気のせい」である。
「人は三つの点があれば、それを人の顔と判断する」
目が二つと口が一つ。
これを再現できる点が揃えば、それは人の顔であると思い込み、決めつけ、さらにそこに集団心理が加算され、世間では大量の心霊写真が作られる。
良からぬ人は、その「気の所為」につけこみ、「思ひ做す」為の手助けをし、そうしてその事象を現実と思い込ませ、それを利用しその人の心理を掌握し、操る。
竹箒も五百羅漢、という言葉の通り、人は気が弱っている時にはあらゆるものに縋ろうとし、その際に手を差し伸べた者を有難がり、必要以上に神聖な対象としてしまう事が多々ある。
この手法は霊的事象に限らず、それが宗教であるのか、詐欺師なのか、多岐に渡り応用が可能かと思う。
我々の業界でも「気の所為」は大事。
我々能力者というものは、実は常に「審神者」でなければならない。
安易に事象を信じるのではなく、まずは疑う所から始めなければ、簡単に神を騙る何かや、悪意のある誰か、または間違った情報をそのまま受け取ってしまう。
そうすれば対応を誤るだけではなく、その間違った情報に触れ続ければ、その能力者本人に影響が出る事となる。
その事を良く知って居ても、我々能力者ですら傲慢・恐怖・不信の心から自ら道を外したり、または外れたりという事が後を絶たない。
明日は我が身と常に自身に刻み込み過ごしていかねば、いとも簡単に堕ちる。
これもまた「気の所為」だ。本人の心持ちが起こした魔性に負けた瞬間という事である。
深夜、家で少々物音がしたとしよう。それが昼間だったらどうだろうか、さして気にもしないのではないだろうか。
深夜という時間帯、暗闇、重なる偶然、そういった恐怖を増長する何かがあって、そこから自身の思考がマイナスに振れ、想像し、それを現実と解釈し、また、それを自身で産みだしているかもしれない。
まずは落ち着き、そこから思考を外し、疑う事も大切である。
実際の所、本当に霊的事象である場合には、こちらの対応で納得してくださる事が多い。
がしかし、「気の所為」による相談の場合には、どのように対応をしても繰り返し、なかなか納得をして頂けない場合が多い。
何故なら、それは気の所為だから。思ひ做す段階まで来てしまえば、その考えはなかなか払拭されず、どんな対応をしようと自身が産みだした魔性は消える事がないからだ。
笑いは最高の対処法だ
さて、今、もし「家に幽霊が居るのかも」と思うのであれば、まずは古参ねらーであった巫個人としては、「びっくりするほどユートピア」を推奨したいと思う。
どうでもいいが、ニコ動に上がっていたロシア人の「びっくりするほどユートピア」は最高だった。
これをやっておけば、良く眠れて精神的にもよろしいかと思う。
(近隣、階下の方のご迷惑にならないようにご注意を)
それでもやはりどう考えても何を試しても、「気の所為ではなさそう」なのであれば、ぜひ巫へご依頼を。
前の記事へ
次の記事へ