「他人の人生を生きる」ことをやめた今。
「他人の人生を生きているのが俺、だとさ」
ある信頼を置いている人間からの一言で、しばらく考えた。
確かにソイツは、他人の為に良かれと思って動き、そうして傷つき、そうして、このような言葉を呟いた。
「まるで昔の自分のようだ」
私は「他人の人生を生きた」結果、何度となく傷つき、痛い目に遭い、報われない気持ちを抱えて生きてきた。
他人に差し出す事は、ある意味、その人にとってのガーディアン的存在であれる事、または、唯一無二の存在であれる事で満足感を得る事ができる。その間はとても熱い気持ちを持てるし、この人生で良いとさえ思う事も多くあり、また、そんな自分が何かしらのヒーローになったような気分になれる。
しかし、いくら見返りを求めない気持ちでいたとはいえ、他人に人生を預け、他人の期待に応えようと、その為だけに生きて残るものは、何かこう、自分であって自分でないような、心をその事に囚われ続けるような、自分を後回しにし、身を削ってボロボロになった何かしらの切れ端のような、そんなものばかりで、それでも良い、と思い生きてきた自分が存在し、それは麻薬のような中毒性を持つものだから、私はその毒の森から抜け出せずにいた。
「あなたは自分を犠牲にして人の為に動くね」
「あなたは本当に優しい人だね」
そんな呪いの言葉に縛られて、鉋で身を削られ続ける毎日が続いていた。
与えすぎる人を、奪い続ける人は鋭い嗅覚で見分ける。
まんまと私はそのカモになってきたわけだ。
一度、二度、三度。
否、両手両足ほどの傷を負い、それでようやく、何かが違うという事に思い至ったのだから、私もなかなかに毒が回っていたのだろうと思う。
「私は私の人生を取り戻し、かつそれでも人の役に立つ事はできる」
この自信を持つまでに、あれから何年を要しただろうか。
私は他人の餌ではなく、また、他人の道具でもない。
私は他人の奴隷ではなく、私は他人の思うように動くモノではない。
私は私の生き方を信念を、楽しいと思う方を選択し続け、
それで痛い思いをしても、それは笑って済む事だ。
この生き方を決定してから、私はやっと、あの毒の森から抜け出せた。
毒の森の中にいた時よりも視界は晴れ、そうして、自分を主張する事が悪ではないと言うことも理解した。
そうして、考え方が変わっても変わらず熱い気持ちを持てるし、この人生で良いと思う事も多くあり、また、自分が何かしらのヒーローになったような気分になれる時がある事にも何の変わりはなかった。
ただ、そのやり方が変わっただけの話だ。
楽しい方を選択する、やりたい事を選択する、苦難ですら自分で選択する。
こんなに自由に人生を創る事ができるのに、それを他人に預けてしまっていた時間はもちろん取り戻しようもないし、削られた身はまだまだ回復中であるが、それでも、あの毒の森へ戻りたいと思う事は全くなくなった。
人様に批判される事に怯えていたり、人様に与えて喜ぶ顔を見たり、人様に合わせる事でこなしてきた人生よりも、自分を貫く事は一見困難であり、実のところとても楽しいものだ。
与えすぎる人を、奪い続ける人は鋭い嗅覚で見分ける。
まんまとそのカモとなってきた私はもうどこにもいないと、そう思う。
私は私であり、貴方は貴方だ。
たとえ世の中が不平等であっても、それは確実に平等である。
その平等の立ち位置に立ち、かつそれでも人の役に立つ事はできる。
それは「冷たい人になれ」という意味ではない。
「与えすぎない人になる」ただそれだけの事だ。
他人に人生を預け、他人の期待に応えようと、その為だけに生きて残るものは、何かこう、自分であって自分でないような、心をその事に囚われ続けるような、自分を後回しにし、身を削ってボロボロになった何かしらの切れ端のような、そんなものばかりだ。
一度、二度、三度。
否、両手両足ほどの傷を負い、それでようやく、何かが違うという事に思い至った私から、今、毒の森の中にいる親愛なる貴方へ、いつかこの言葉が届く事を心より願っている。
「貴方は貴方の人生を取り戻し、かつそれでも人の役に立つ事はできる」