「バチが当たるのか」という相談と、その場を大事にしている人たちがいる神域や聖域と、そうして「祈り」という言葉の安直さ。
目次
お寺をウロウロしていたら、カメラを持った年配の男性が、心配そうに話しかけてきた。
とあるお寺で、いつも購入しているお線香と塗香を買い、それからウロウロと徘徊していた時だった。
カメラを持った年配の男性が、とても慌てた様子で私に声を掛けてきた。
「御本堂の全体写真を撮影したら、撮影禁止の御本尊がちょっとだけ映り込んでしまった。これはバチが当たるのでしょうか」
何故私に声を掛けてきたのか、と思ったが、その年配の男性は本気で心配している様子で真剣な顔で私を見ていた。
(余程信心深い方なのだな)と私は感心し、その男性に笑顔で答えた。
「神様がそんなに心が狭いと思いますか?撮影禁止の場所にずかずかと上がり込んで悪意を持って撮影したわけでもなく、たまたま映り込んでしまった。そんな事でバチを当ててくる神様が居れば、それは神様ではないですよ」
実際、撮影禁止なのは神が申し出た事情ではなく、お寺、つまり人間側の都合だ。
この年配の男性はその人間側の事情にも配慮し、きちんとルールを守った。
そこに御本尊の足元が少々写り込んだ。どう考えても”バチが当たる”案件ではない。
立ち入り禁止の神域にしても、そこを踏み荒らす人間が問題なのであって、それは神が申し出た事情ではない。
神聖な場を守るためのルールであり、それは過去に誰かが荒らしたり問題があったか、人目に触れて欲しくないものがある、壊されたくないものがある、そういう理由があるからだ。
沖縄の斎場御嶽だって昔は普通に入る事が出来た。
それが制限を設けるようになったのは、人間がその場を荒らしたからだ。
その領域を守る人たちにとってその場が穢される事は耐えられない。
その当たり前の感情に配慮する事もなく、テーマパークのように訪れ、大騒ぎしたり悪戯をしたり、良く分からないスピリチュアルな集会を開いたりするのは如何かと思う。
自分が大事にしている自宅に突然知らない人がたくさんやってきて、家の中で色々とされたら嫌だろう、それぐらい簡単な事だと思う。
ここはあえて「もどき」と言わせていただきたい霊能者の思考と行動
そういや、首里城(もともと再建されたレプリカだが)が焼失した際に、とある能力者、いや、能力者もどきが言った。
「私、首里城に行かなければなりません」
「行って何をするんですか?」
「仲間と一緒に祈ります」
そもそも首里城に愛着があった訳でも、沖縄の人間でもないその人は、何故か焼失した首里城の傍で祈る、というのだ。
それが私たちの使命だという啓示がありました、と。
私は心底呆れた。
どういう啓示を取ればそういう話になるのだ、と。
その大勢で沖縄に押し掛ける旅費を全て復興のために寄付した方が余程首里城のためになるというものだ。
いや、祈れば首里城が再建されるような力があるなら是非祈ってくれたら良いと思うのだが。
「祈り」という言葉の綺麗さと上っ面の祈りと。
”祈り”という言葉はとても綺麗で、なんだかこう“善い行い”をしているイメージが付いている。
しかし意味のない”祈り”のために大枚をはたく理由はいったいどこにあるのだ。
そんなもの、ただの自己満足でしかないではないか。
”善い行いをした”と満足し、他者へ向けて発信するための材料でしかない。
これはその領域を大事にする人たちにとって、善行のフリをした悪意であり、とても失礼な行為だと私は思うのだ。
自分が大事にしている自宅が火事になった。明日着る服すらなくなり困っている。
そこへ人がたくさんやってきて、家の前で祈って帰っていった。
それでその火事になった家の人が困っている問題の一つでも解決するのか?それぐらい簡単な事だと思う。
こういう人たちが”我々は啓示を受けた” という特別感と優越感を持って神域を荒らすのだろうな、と感じた瞬間だった。
それこそ”バチが当たればいい”のに。
先述の年配の男性は、私の意見に安心した顔をして帰って行った。
「でも、どうしても気になるなら後で消したら良いと思いますよ」と一言声を掛けておいた。
ずっと気にしていると、例えばちょっとタンスの角に小指をぶつけただけでも「バチが当たったのかも」とこじつけて考えてしまう。
それならその問題は解決してしまった方が良い。