「能力者・霊能者・鑑定士=品行方正」ではない。「世間が持つイメージ」に縛られる必要はない。我々も人間だ。なによりも無為自然であれ。
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霊能者と聞くと、なんだかとても品行方正だったり清貧だったり、食事とか色々と気を遣っているのでは・・・とよく聞かれる。
イメージをぶち壊して申し訳ないが、そんな事はない。
そんな事があれば、私はこの性格であるから即座に能力を剥奪されているだろう。
人が持つ「霊能者のイメージ」というものは、とても美化され過ぎている。
巫においては過去に「鬼畜能力者」を名乗っていたぐらいには鬼畜であるので、お世辞にも性格が良いとは言えない。
生活態度が良いとも言えないな。
しかし、私はこの「霊能者の理想のイメージ像」にとても悩まされている。
この理想のイメージ像を勝手に持って、それを押し付けてくる人がとても多いのだ。
そうして、勝手に失望されるのだから、本当にどうしようもない。
私はいつもありのままだし、取り繕う事こそ嘘だと思うのでそれもやらない。
正直に向き合う事こそが、能力者の役目だと思っている。
また、すべての能力者とはエネルギーの流れがスムーズでなければ力を発揮できない。
自分に嘘をつく、取り繕うという事は、その時点でエネルギーの流れを滞らせると思っている。
「こうであらねばならない」という枷を自分につける=自己裏切りは、気枯れの原因にしかならない。
エネルギーの流れを大事にしている能力者なら分かるだろう。
他人にどう思われようと、自分が自分のままでいる事がいかに大切か。
ただ、昨今は「(みんなが思う)能力者としての正しいふるまい」ばかりを強く求められすぎて、それが過剰になっている面もある。
それが故に「能力者は品行方正であらねばならない」という押し付けに繋がっているのも否めない。
能力者全般に人が持つ理想像や偏見に苦しむ人たちがいるという現実。
・能力者は品行方正であらねばならない
・能力者は滅私奉公でなければならない
・能力者は清貧な生活を送っていなければならない
・そしてできれば、多少、周りより不幸でなければならない
何故、能力者だけにそのような事を当たり前に求めるのだろうか?
能力者は職業の一つだ。医者にも、芸能人にも同じ事を言うのか?と思う。
病院にかかればお金を当たり前に払うような人も、能力者へ依頼して、え、有料なの?じゃあ偽物なんだね?と嫌な顔をする。
目に見える病と目に見えない病、どちらもある意味治療である。
能力者だって生きているんだ。霞を食って生きてはいけない。
真面目に生きている能力者が、当たり前に生活できる世の中になって欲しいと私は思っている。
真面目な者ほど馬鹿を見る、という言葉がこんなに当てはまる世界はないと思っているからだ。
私ですら、暇があれば情報を取ろうとするし、時間が許す限り呼ばれた神社へは行くし、学びもやめてはいない。
なんだかんだと能力者としての意識を忘れないように日々努力を続けている。
となるともっともっと真面目に生きている能力者は沢山いるはずだ。
彼らにももっと自由を、と思う。
そういう方々は私のような能力者とは絡みたがらないかと思うが、能力者は品行方正である必要はないよ、と彼らに伝えたい。
真面目であるが故に、世間からのイメージを守ろうとし、自己裏切りをする羽目になり、エネルギーの流れが乱れ、そうして潰れていく能力者を私はあまり見たくはない。
とはいえ何でもOKという話ではなく、やはり人として、の部分はとても大事。
ここまで好き放題に書いたが、それでも「絶対に越えてはいけないライン」はある。
他人様を利用する事、それは神でも人でも同じだ。
利用するだけ利用して、その恩恵にあずかるだけあずかる、他人様から奪うばかりの行為は、いくら自分に正直であれと言えどもNGだ。
また、力を使って人を騙すのはNG、嘘の鑑定をするのはNG。
能力があるフリをするのもNG。
これは間違いなくだ。
それらはその行為を行っている時点で、いくら自分に正直であると言った所で、すでに気枯れの状態であるし、エネルギーの流れは滞っている。歪んだ状態で自分を、世間を見ている事になる。
能力者も極力「無為自然」である事が大事であり、みんながそうなれるといいなと思っているよ。
無為自然。
人の手を加えないで、何もせずあるがままにまかせること。▽老子や荘子思想を指す言葉。「無為」は何もせず、人の手を加えないこと。「自然」は人間の手が加わっていないもともとの姿の意。あるがまま。(三省堂 新明解四字熟語辞典より)
老子の言葉である。
無為自然というのは厳密に言えば、「何もしないで良い」という意味ではない。
「無為」というのは「意図や作為のないさま」という意味であり、意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味していると言える。
万物が「道」に順って生きていくのに基本となる立ち位置、有り様が「無為自然」であるということが大切だ、という意味だと解釈する。
ずっと昔は、完璧なまでに無為自然だったんじゃないかな、と思うんだ。
それは、能力者だけではなく、人間全体の話としても、そう思う。
あるがままに生きる事に制限をかけられる現世。
生きづらいと感じる人が増えるのも当然だ。
とはいえ楽しい事も増えたし、美味しいものも増えたし便利になったよね。
それらをすべて排除して生きていく事もまた違う、と思うんだ。
文明が進化したのに、それをあえて選ばないというのも、なんだか自分に不便を強いているようでまたそれは「無為自然」ではないと思う。
進化したものもそれも「道」と考え、受け入れるのもまた必要なのではないだろうか。
「求められて行う品行方正・清貧」と「無為自然」はイコールではない、そう思うんだ。
もちろん、自ら「品行方正」「清貧」な生き方を選んだのであればそれはまた別の話。
ただただ、「能力者・霊能者・鑑定士」が、何やらよくわからないレッテルを貼られる事から開放されればいいな、と、それだけを願っている。